4/4 広島原爆ドーム
2008年 04月 04日
最近インターネットをする機会があまりなく、、更新いつものことですが遅れてますが、ま、少しずつ。。。
時間あったら読んでやってください
思いで日記です。
さて、この日僕は広島の原爆ドームへとやってきました。記憶が確かならば始めてここに来たのは小学生のときのはず。しかし、記憶がうつろであまり印象は残っていない。
というわけで、今回がほとんど初めてのようなものでした。
広島駅から路面電車に乗り継ぎ15分くらいかな、『原爆ドーム前駅』に着きました。
数年前に改装されたらしく、この辺りはとてもきれいに整備されていました。そして、すぐに目に入ってきたのは、
『原爆ドーム』。
季節は春、周りにはたくさんの桜が咲いていました。でも、目の前にある原爆ドームを眺めていると、一瞬時間が止まったように感じました。 もちろん僕は戦争を実際にこの目で見たことはない。だけど、テレビや映画、写真などで何度もそうした映像を見たことがあり、頭の中でその当時のことが浮かんできました。乾いた、温度のない風がさらけだされた心を横切ったような感覚を覚えました。
すみません、何言ってんだかわからないですね…
ゆっくりと平和記念公園を歩いたあと、原爆記念資料館へと入りました。
そこでは数多くの展示品や映像を見ることができます。終戦から63年たった今でも多くのことを語り続けています。何かを感じずにはいられないと思います。
この原爆記念資料館をもっと知りたい方は ココ ご覧ください。
下記はそのサイトでも見られる資料の一部です。
1945年8月6日 8:15
太平洋戦争末期、 日本全土は連日アメリカ軍の爆撃を受けていましたが、 広島市はまだ空襲を受けていない最大級の都市として残っていました。広島市は、中国地方の行政、経済の拠点であり、陸軍の主要基地でもあったため、当時30万人を超える在住者がいたと考えられています。
それだけの重要拠点だった広島が、なぜほとんど空襲を受けてなかったのか?
それはアメリカ軍の計画通りの事でした。 世界で最初の原爆投下にあたりアメリカ軍はその効果を今後のために記録しておきたい思惑がありました。その為に、人口で数十万規模の街であり、空襲などの被害を受けていない都市が必要だったから、そういったことが資料の中で伝えられていました。
資料館の中では展示物の他に、過去にテレビでも放映されたドキュメンタリー映像が見れるミニシアターなどもあります。実際に原爆投下時にここにいた方のその後の人生などが映し出されていたりもします。
親や兄弟、そして我が子をこの原爆によってなくした人、先生や親類、友達をなくした人の、幾月日が経っても変わらない悲しみの声が伝わってきます。それらは、心に響かずにはいられないものでした。
ふらふらとした旅の途中でしたが、ここに来て良かったと思いました。
改めて思い知らされます。
平和の意味を。
平和の大切さを。
それでも今も尚世界ではたくさんの争いが起こっています。
日本でも、戦争はないにしても、毎日悲しいニューズが聞こえてきます。
ここで感じたことを忘れずにいようと思います。
いつか自分にできることをしてみたいと思いました。
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思いで日記です。
さて、この日僕は広島の原爆ドームへとやってきました。記憶が確かならば始めてここに来たのは小学生のときのはず。しかし、記憶がうつろであまり印象は残っていない。
というわけで、今回がほとんど初めてのようなものでした。
広島駅から路面電車に乗り継ぎ15分くらいかな、『原爆ドーム前駅』に着きました。
数年前に改装されたらしく、この辺りはとてもきれいに整備されていました。そして、すぐに目に入ってきたのは、
『原爆ドーム』。
季節は春、周りにはたくさんの桜が咲いていました。でも、目の前にある原爆ドームを眺めていると、一瞬時間が止まったように感じました。 もちろん僕は戦争を実際にこの目で見たことはない。だけど、テレビや映画、写真などで何度もそうした映像を見たことがあり、頭の中でその当時のことが浮かんできました。乾いた、温度のない風がさらけだされた心を横切ったような感覚を覚えました。
すみません、何言ってんだかわからないですね…
ゆっくりと平和記念公園を歩いたあと、原爆記念資料館へと入りました。
そこでは数多くの展示品や映像を見ることができます。終戦から63年たった今でも多くのことを語り続けています。何かを感じずにはいられないと思います。
この原爆記念資料館をもっと知りたい方は ココ ご覧ください。
下記はそのサイトでも見られる資料の一部です。
1945年8月6日 8:15
太平洋戦争末期、 日本全土は連日アメリカ軍の爆撃を受けていましたが、 広島市はまだ空襲を受けていない最大級の都市として残っていました。広島市は、中国地方の行政、経済の拠点であり、陸軍の主要基地でもあったため、当時30万人を超える在住者がいたと考えられています。
それだけの重要拠点だった広島が、なぜほとんど空襲を受けてなかったのか?
それはアメリカ軍の計画通りの事でした。 世界で最初の原爆投下にあたりアメリカ軍はその効果を今後のために記録しておきたい思惑がありました。その為に、人口で数十万規模の街であり、空襲などの被害を受けていない都市が必要だったから、そういったことが資料の中で伝えられていました。
資料館の中では展示物の他に、過去にテレビでも放映されたドキュメンタリー映像が見れるミニシアターなどもあります。実際に原爆投下時にここにいた方のその後の人生などが映し出されていたりもします。
親や兄弟、そして我が子をこの原爆によってなくした人、先生や親類、友達をなくした人の、幾月日が経っても変わらない悲しみの声が伝わってきます。それらは、心に響かずにはいられないものでした。
ふらふらとした旅の途中でしたが、ここに来て良かったと思いました。
改めて思い知らされます。
平和の意味を。
平和の大切さを。
それでも今も尚世界ではたくさんの争いが起こっています。
日本でも、戦争はないにしても、毎日悲しいニューズが聞こえてきます。
ここで感じたことを忘れずにいようと思います。
いつか自分にできることをしてみたいと思いました。
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by lovely_smile094
| 2008-04-04 23:45