トゥールスレン博物館へ行きました。
2007年 12月 30日
ゴミ山へ行った同じ日、プノンペン市内にあるトゥールスレン博物館に行ってきました。博物館という名前がついていますが、実際はトゥールスレン収容所。
皆さんはご存知でしょうか? 今からほんの30年前のことです。 東南アジアの国カンボジアで起きた世紀の大虐殺。
フランスからの植民地支配を受け続けていたカンボジアでは、ベトナム戦争でのフランスの敗北を機に、当時の国王シアヌークにより独立宣言が行われました。平和がやっとこの国にも来たと思われた瞬間だったそうです。いまでも独立後の数年間、シアヌーク国王が国政を行っていた頃が一番平和だったというカンボジア人も多くいるそうです。
その後シアヌーク国王は、ベトナム戦争において、北ベトナムへの物資供給を支援したり、避難路としてカンボジア国内への入国を認めたりと、南ベトナムと共に北ベトナムを攻撃していたアメリカに反する北ベトナム援助を行いました。これがアメリカの反発を買い、アメリカはロン・ノル将軍を後押しし、シアヌーク国王が海外へ訪問中にクーデターを起こさせ失脚させました。
新しい政府は国民からも支持は得ていませんでした。 その後に政権を奪回したのが、悪名を馳せるポル・ポト政権だったのです。
ポル・ポトはシアヌークを引退させ幽閉し、実権を自分のものとしました。
彼が行った粛清・虐殺により、外国人はもちろんのことカンボジア国民も含め200万とも300万ともいわれる大量虐殺が行われました。
今日行ったトゥールスレンはもともとは小学校だったものを、拷問を行ったり、収容したりする場所として使われていたのです。
外観は整備されてきれいなものでした。
でも、敷地内に建てられた慰霊碑、拷問に使われた器具、建物の中には当時拷問時に使われたベッドと収容者をくくりつける足かせ手かせがそのまま残され、今ではかなり薄くなっていましたが、おびただしい数の血痕も当時行われた行為の凄さを物語っていました。
別の建物では収容者を個別に収容するための独房があり、そこに収容されていた人の写真も展示されていました。そして最後の建物には、そこに収容された数え切れない人たちの写真が展示されていました。中には本の小さな子供や赤ん坊まで…
建物中は重苦しい空気に包まれていて、とても息苦しかった。
同じアジアで、ほんの30年前に起きた悲劇。どんな理由があろうと決して許されない非道な行為!あってはならない事実!
でも、僕はこの事件のことをここに来るまでほとんど知りませんでした。 いや、知らなかったんじゃなく知る術はいくらでもあったはずなのに知ろうとすらしなかった。
今もカンボジアの人々に悲しい影を落とすこの事実、そして、今もたくさんの犠牲者を出している地雷の多くはこの時代に埋められたのだそうです。
案内してくれたブランの話をただうなずきながら聞き、何もコメントすることもできませんでした。
もっといろんな世界の現実を知る必要があると強く感じました。
そして、全部回り終え収容所をでた僕たちを待っていたのは、地雷の被害にあった人たちでした。
映像で見たことはある。でも実際にこの目で会うのは初めてでした。一人の男性は両手がなく、その手を見てくれといわんばかりに僕たちの前へ向けてきました。もう一人は、おそらく地雷の爆風を正面から受けてしまったためか、顔が普通の人のそれとはまったく違っていました。
彼らはそうした被害にあった体を観光客に見せ、お金をもらおうとしているのです。
僕は…、僕はそんな彼らをまともに見ることができませんでした。 たった今トゥールスレンという悲しい事実を見、沈んでいたときに見たもうひとつの現実。
そんな彼らを見ることもできずに、避け、足早にその場を立ち去ってしまいました。
その日、学校へ戻った後も自分がどうすべきだったのかを考ずにはいられませんでした。すぐには答えは出ませんでした。
僕はあの時見ることすらできなかった。どうすべきだったのだろうか?地雷の犠牲者は特別な国からの援助はないそうです。じゃあ彼らはどうやって生きていけばいいのか。
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皆さんはご存知でしょうか? 今からほんの30年前のことです。 東南アジアの国カンボジアで起きた世紀の大虐殺。
フランスからの植民地支配を受け続けていたカンボジアでは、ベトナム戦争でのフランスの敗北を機に、当時の国王シアヌークにより独立宣言が行われました。平和がやっとこの国にも来たと思われた瞬間だったそうです。いまでも独立後の数年間、シアヌーク国王が国政を行っていた頃が一番平和だったというカンボジア人も多くいるそうです。
その後シアヌーク国王は、ベトナム戦争において、北ベトナムへの物資供給を支援したり、避難路としてカンボジア国内への入国を認めたりと、南ベトナムと共に北ベトナムを攻撃していたアメリカに反する北ベトナム援助を行いました。これがアメリカの反発を買い、アメリカはロン・ノル将軍を後押しし、シアヌーク国王が海外へ訪問中にクーデターを起こさせ失脚させました。
新しい政府は国民からも支持は得ていませんでした。 その後に政権を奪回したのが、悪名を馳せるポル・ポト政権だったのです。
ポル・ポトはシアヌークを引退させ幽閉し、実権を自分のものとしました。
彼が行った粛清・虐殺により、外国人はもちろんのことカンボジア国民も含め200万とも300万ともいわれる大量虐殺が行われました。
今日行ったトゥールスレンはもともとは小学校だったものを、拷問を行ったり、収容したりする場所として使われていたのです。
外観は整備されてきれいなものでした。
でも、敷地内に建てられた慰霊碑、拷問に使われた器具、建物の中には当時拷問時に使われたベッドと収容者をくくりつける足かせ手かせがそのまま残され、今ではかなり薄くなっていましたが、おびただしい数の血痕も当時行われた行為の凄さを物語っていました。
別の建物では収容者を個別に収容するための独房があり、そこに収容されていた人の写真も展示されていました。そして最後の建物には、そこに収容された数え切れない人たちの写真が展示されていました。中には本の小さな子供や赤ん坊まで…
建物中は重苦しい空気に包まれていて、とても息苦しかった。
同じアジアで、ほんの30年前に起きた悲劇。どんな理由があろうと決して許されない非道な行為!あってはならない事実!
でも、僕はこの事件のことをここに来るまでほとんど知りませんでした。 いや、知らなかったんじゃなく知る術はいくらでもあったはずなのに知ろうとすらしなかった。
今もカンボジアの人々に悲しい影を落とすこの事実、そして、今もたくさんの犠牲者を出している地雷の多くはこの時代に埋められたのだそうです。
案内してくれたブランの話をただうなずきながら聞き、何もコメントすることもできませんでした。
もっといろんな世界の現実を知る必要があると強く感じました。
そして、全部回り終え収容所をでた僕たちを待っていたのは、地雷の被害にあった人たちでした。
映像で見たことはある。でも実際にこの目で会うのは初めてでした。一人の男性は両手がなく、その手を見てくれといわんばかりに僕たちの前へ向けてきました。もう一人は、おそらく地雷の爆風を正面から受けてしまったためか、顔が普通の人のそれとはまったく違っていました。
彼らはそうした被害にあった体を観光客に見せ、お金をもらおうとしているのです。
僕は…、僕はそんな彼らをまともに見ることができませんでした。 たった今トゥールスレンという悲しい事実を見、沈んでいたときに見たもうひとつの現実。
そんな彼らを見ることもできずに、避け、足早にその場を立ち去ってしまいました。
その日、学校へ戻った後も自分がどうすべきだったのかを考ずにはいられませんでした。すぐには答えは出ませんでした。
僕はあの時見ることすらできなかった。どうすべきだったのだろうか?地雷の犠牲者は特別な国からの援助はないそうです。じゃあ彼らはどうやって生きていけばいいのか。
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by lovely_smile094
| 2007-12-30 20:21
| カンボジア